1章
かつては鏡の里と呼ばれた旧都の外れ。
都の遷都と共に平城の都は「旧都」となり、うち忘れられた寂しさが漂い始めている。ましてやこの鏡の里は、都より一山も二山も超えた外れのひなびた田舎。里を訪ねる者は、他国に向かう行者くらいのもので、静けさ漂う閉鎖的な里と言えた。
此処は水田や田畑が広がるごくありふれた田舎の光景が広がり、この里は都の騒乱とは関わりなく、幾歳過ぎようとも、同じ光景が広がり、人々は似た営みを続けて行くのだろうと思われる。
里を取り仕切るのは丘の上の館の主人だ。何世代前には都の皇家と縁続きの家であったが、いつしか没落し、時に忘れられ、里に土着した。今は「鏡」という受け継がれてきた姓も捨て、新たな「姓」を名乗り、村人を統括している。
「時の巫女」
背後から呼ばれた。
奏は振り返り、収穫した野菜を背負う里の民に穏やかに笑う。
「今年は日の照りも良く、よう雨も降った。作物もよう実ったな」
「みな、巫女のご託宣のたまものにござぇます」
ありがたや、と手を合わせかねないので、奏はいいえ、と首を振る。
「すべて倖人さまの御力。上宮の御力がこの里を護り続けよう」
自らの夫君ながら、この里の統治者たる倖人の「御力」は怖れ敬うほどに強い。幼少の時より先祖がえりに近いほどの「御力」を有していたが、長ずれば長ずるほどにその力は高まってきた。
「倖人さまと巫女あってこその里にごぜぇますよ」
里の民は笑って道を行った。
奏は歩を早くし神域と化している山を登る。倖人が娘の響に手を引かれて山頂に行ったと聞き、後を追うことにしたのだ。
年老いた身にはさすがに山登りは堪えたが、そう標高は高くはない山なのが幸いした。四半時で登り切ったが、汗が額より流れ、胸などは心拍数は激しい。
「おや……奏さん」
山頂の岩に腰を下ろしている倖人が、ゆっくりと顔を奏に向ける。
「おいでなさったのですか」
その目は閉ざされたままである。
「昨日は祭祀にて御力を放出し、本日は安静にせねばならぬと私が何度」
申し上げましたか覚えておいででしょうか、とまでは奏は綴らなかった。
倖人は穏やかに微笑み、その身は秋風を愛しげに感じている。生まれながらして目の視えぬ倖人は、風によって大地を視、香によって大地に触れる。
「ははさま。ととさまを怒らないで差し上げて下さいませ。ととさまは……風に風雲を感じてここに見に参りましたのよ」
娘の響は、父倖人の手を取り、どこまでも庇う姿勢を見せるので、奏はつい苦笑を洩らしてしまう。もはや四十を過ぎたというのに、いつまで経っても父親っこの娘だ。
「……風雲は都より流れてきた風でありましょうに」
「人の陰謀の香りが濃い。嫌な風ですね。権力集まるところには陰謀が常に沿うて、人を澱ませます」
「そろそろミコトも平安の都に飽き飽きして、ここに逃げ帰るかもしれませんことね」
あの世俗につかり、まさに俗っぽくなっている「ミコト」は、新しく設えられた異国の唐の都長安を手本とした「新都」にどのような感慨を持っているのか。もう十数年、姿を見せない。
そろそろ奏も懐かしさを抱くようになってきた。
「ミコトと言えば、内麻呂の子どもの真夏を可愛がり、真夏があるがために都に赴いたと聞いておりますが」
「……あのミコトはほんに気まぐれで、もう真経津鏡の一対は藤原北家に預けて、ここにお戻りになればよいというに」
あの黒き子猫の姿のまま、新しき都を駆けまわっていると思うと、その身が心配でならない。
「昨日、風の言伝では、ミコトは楠の木が気にいり、毎日登って都を眺めているとのことです。奏さんも、そうご心配されませんように」
倖人の言葉はまるで人の苛立ちを和らげる癒しに等しい。わずかに粗だった奏の心が波が引くようにおさまる。
「奏さん」
やさしく優しく、穏やかに、奏を呼ぶ声。
「いつも倖人さまにはこの奏を、春風で満たしておしまいになります」
「何をお言いになるのかな」
出会った時も、倖人は穏やかに微笑み、やさしく「奏さん」と呼んだ。
初めての恋を捨て、産み落とし子を置いて嫁いできた奏を、いつも真綿に包み込むかのようにやさしくやさしく。
「ごらんなさい。私の目の代わりに。この里の美しさを。稲穂が輝く秋の宝石を」
稲穂輝く初秋の季節が里を包みこむ。
時の巫女として「奏」が初めてこの地に降り立ったときと同じ……乾いた風が吹く秋が。
*
天から降ってきた。
藤原八束は、その腕に抱きとめた小さな少女を、ただジッと見つめていた。
神聖なる巫女の装束と言うべきだろうか。今では時代遅れの衣装であるが、白衣に白裳を倭文布の帯肩で結び、肩には長く薄い領巾を身につけ、首にかけられているのは勾玉だろうか。
烏の色よりもさらに濃き黒き髪はさらりと八束の頬に触れる。
「……なんだろう」
藤原家の男子たるもの、摩訶不思議な現象にはさして驚きはしない。例え八尾の銀狐が現れようと、八百万神々がお菓子を食しにこようとも。タヌキやキツネが人に化けようとも、何も驚くことではない。ごく普通のことだ。
何せ我が家の家神である黒猫が、実は父祖中臣鎌足の化身で、今でものうのうと生き続けているという現実がある。
たかが天から小さな女人が降ってきたということも、「またか」という意識の方が強いといってもいい。だが、だ。生身の少女の熱に八束は狼狽する。今までそれなりに女人と遊んではきたが、こうした少女を腕に抱くのは初めてのことだったのだ。
「………」
八束の狼狽が伝わったのか、少女はうっすらと目を開き、自分を抱きとめる男の顔を見た。
「無礼者」
その小さな声音はどこまでも冷淡で、かつ小鳥のように高く美しき音色であった。さらにドキリと八束の胸は跳ねる。声だけではない。むしろ驚きをもったのは、開かれた少女の瞳はつぶらで、愛らしく、なによりも深き夜の色合いをした美しき瞳を有していたことにだ。
「兄上」
山階寺の西に位置する佐保殿と呼ばれる実家に八束は飛び込んだ。
その背には少女を背負い、はぁはぁと息を乱す。門前にはちょうど内裏より戻ってきた兄永手がおり、なぜか笑っているのだ。
「なんですか。その笑いは」
「いや……女と言えば熟女を好む弟殿が、ついに趣向を変えたかと思ってね」
「なんなんですか、それは。別段、俺は熟女を好むという訳ではありませんよ。良くご存じのはずです」
脹れっ面をしてしまった弟を見て、すまんと言いつつも永手は笑っている。
単に近寄ってくる女人が年上の人妻が多いというだけである、とついつい力を込めて弁舌すると、そうか、と永手は二コリと笑うのだ。
その年よりもかなり童顔で、しかも幼さが漂う愛らしい顔が、確実に熟女に好かれている八束である。年の割には幼さを匂わす挙動も、背丈の低さも、人懐こくにっこりと笑うことができる表情などは、どうも女性に母性愛をもたらせるらしい。
対してその兄の永手の方は、気品のある貴公子然としており、その身は実に典雅な身のこなしでいつも八束は惚れ惚れとする。顔は色白で端整な容姿であり肉好きがなく華奢な体躯。なぜか妙に男に好かれるのだ。
二人ともその事に思い至り、顔を見合わせて、ため息をつく。
年子の兄弟のため、ほぼ双子の如し扱いで育った二人であるというのに、どうしてこうも違うのだろう。
天平五年(734年)、八束が十八歳。永手が一つ上の十九歳。藤原四家のうち北家の出であり、父房前が正三位参議という立場にある。その母は参議橘諸兄の妹ということもあり、将来の出世は約束されている。
父房前は教育として、「父の名と藤原の名をあてにするな」と幼少から散々に言い続けていたため、二人ともに小さいころから勉学をもって世に立つことを定めて精進してきた。
「空から降ってきたのです」
どうにかこの手の話題から逃れたい八束は、つい話を打ち切る意味で背で眠っている少女の話を切りだす。
「東宮において、空を悠然と飛ぶ鷲を見ていたら、突如空が光って、この人が落ちてきたんですよ、兄上」
これが他の者であれば「何の冗談」と大笑いをしたかもしれない。
だが藤原家では非現実など日常茶飯事なので、摩訶不思議な現象を語ろうとも真剣に聞く。
「……可愛らしい女の子だね」
永手はそっと少女の頭を撫ぜ、ふと白衣の袷の奥に何か布で包まれたものを抱いていることに気付く。
「家神殿のもとに連れて行った方がよいね。……左京の麻呂叔父上のところに行こうか」
「……俺はどうもおじじ……家神殿は苦手ですよ。何もかも見透かされてしまいますから」
「家神殿は八束がお気に入りなのだよ」
「………」
従者に牛車の支度を命じ、三人ともに乗り込んで、左京に向かわせる。
一度、目をあけ「無礼者」と告げた少女は、またすぐに眠りの世界に誘われてしまった。
牛車の振動をもっても全く目を覚ますことはない。
「どこかの巫女殿であろうね。しかも相当に格式が高い……。それにしても、まるで陽に当たってはいない白皙のような……色」
永手はどこか愛しげに少女を見つめるのは、昨今、妻帯をし、妻が今身ごもっているからかもしれない。どことなく父性の色合いが醸し出している永手を、気に食わないとばかりに八束は視線をそらしてしまう。内侍(ないしのかみ)との婚儀は八束は反対だった。早くから妻帯することは、祖父母の言いつけではあったが、それでも早すぎる。兄より三歳年上のあの美しすぎる義姉の喜怒哀楽のない顔を思いだし、さらに面白くない気分となった。
「年は十歳くらいかな。八束。このお方の気はどのような色なのだい」
「……えっ……気って。兄上にも視えるでしょう」
今さら何を言っているのか。ぶしつけな視線でまじまじと見慣れた兄の顔を凝視する。
「……今まで言わなかったけど、どうも妻を迎えると共に視えなくなってしまったのだよ。もう私には天翔ける龍神も、八百万の神々も二度とこの目で視ることは適わないのかもしれない」
藤原家には父祖の血により、人ならざる摩訶不思議なモノを視る目を宿す子どもが多かった。
永手、八束兄弟にも幼きときからその力が宿っていた。
幼子には「神がかり」の力があると言われる。多くの従兄姉たちも「目」に力を宿していたのだが、七歳をして視えなくなるものが多かった。七歳という年齢は「神かがり」から外れる年で、子どもは神から人の域に足を踏み入れる年とされる。常人となることから力が消えるのだろうと思われた。
だが八束も永手も七歳を過ぎようとも、はっきりと摩訶不思議をとらえた。父房前や叔父麻呂がこの事を慶事として兎角喜んだものだ。
その力が兄から消えたという。
「私には御力は必要ないのだよ、八束。だから自然と消えてくれた。……なくなると寂しいものだけど」
自分たち年子の兄弟は特別なのだ、と幼き時より思ってきた。多くの従兄姉たちにも鼻が高かったし、視えるということで嫌な思いをしたことは八束にはない。
「……透き通るほどに澄んだ桃の気を宿しています」
永手の声にはやはり「哀しさ」が含んでいる。今まで弟に告げなかったのも、もしかすれば御力が戻るかもしれない、という期待があったからとも言えた。
「御力」を失う。ただそれだけのことが、藤原では大きな一大事の一つともなる。
あえて八束はその点を突き、兄を傷つけることをしたくはなかった。
「薄い桃かな。この子にはよく似合う」
兄より視力が消えたということが、妻帯よりわずかに遠くに感じてきた兄がさらに遠くに行ってしまったようで、八束を打ちのめした。
「どうしたのだい、八束」
兄のその手は気遣うように八束の頬に置かれる。
「視えなくなろうとも、おまえの気が荒んでいることくらい分かるのだよ」
「なんでもないですよ」
幼い時から共にありすぎたために、オトナになって離れて行くこの違和感がたまらなく辛いなど、この永手には分からないだろう。
異常と言われるかもしれない。狂気と蔑まれることやもしれぬ。八束はこの兄を誰にも渡したくはないのだ。
そこで牛車が止まった。ガタリと身を倒すほどの揺らぎに、眠っていた少女が跳ね起きて、八束の胸元に飛び込んでくる。
「地がお怒りでありますか」
少女は肩を震わせて呟いた。怯えている。
「大丈夫ですよ、牛車が幾ばくか乱暴な止め方をしてしまいましたね」
永手が穏やかに言うと、少女はゆっくりと振り向いた。
「空よりお出でになられたお方」
幼子に言い聞かせるかのような優しいやさしい永手の声音。
少女は何度か瞬きをし、そしてすぐに八束の方を向いた。
「あなたの方が濃い。ミコトさまの気が……」
と、胸元にしがみつくようにして、八束のもとを離れようとはしないのだ。
熟女に可愛がられることは多くあった八束だが、幼子に懐かれるのは初めてのことと言えた。
「……兄上……」
「これはやはり家神殿に相談せねばならないね。どうも……ただの女の子ではないし、それに」
よく見てご覧、八束。
この方の目は深き闇の色合いをしている。それは家神の瞳の色と似た色合いの……深き夜の濃い色。
藤原家において瞳における「黒」の色合いは、何よりも重要視されるものであった。
→時の巫女 2章 へ続く
時空の彼方らか 時の巫女1-1